弥縫録

その場しのぎで生きてる中年の記録

抜き差しならない話

今週のお題「寝る前にしていること」

 

寝る前に、枕元に置いてある日記帳に、SNSでつぶやく程度の文量を書き込むことにしています。空白の多いカレンダーに一言書き込んでいたところから始まった日記ですが、気づけばずいぶん長く続いています。書かなければ、という使命感を持たないのが長く続けるコツなのかもしれませんが、とにかく何かしら、一言でも書くようにしています。しかし、こんなことにも敵はいるものです。睡魔と酔い、この二つが出てくると大変です。

眠いときも酔っ払っているときも、日記帳に向かってペンを持ったまま寝てしまう。だから、後日読み返すと、ミミズの這ったような、あるいはナメクジの這った跡のようなものが幾筋も残ることになります。まともに書けなくなるというのは、日記を書くうえで大敵です。

で、寝る前にしていること、ですね。そうですか、なるほど。みなさんは何をしているのか、ちょっと気になりますね。

「寝る前には温かいミルクがいいですね。質の良い睡眠がとれるような気がします……」

例えば、これを健康食品を売っているアカウントが書いていたとしたら、そのままの意味でしょうが、私みたいなヒネたおじさんが書くと、どうでしょうか。今回はかなりふわっとした内容になりますが、そこはそれ。あなたの読解力を駆使して楽しんでいただければと思います。

ストレスにしても、その他のものにしても、溜め込んだまま眠りについたのでは、翌朝の寝覚めに関わります。溜まったものはその日のうちに片付けて、寝て覚めたら新しく切り替える。新鮮に命を燃やすべきです。無論、ストレスの話であります。

枕元には、いつ何時、うっかりアレルギー性鼻炎になっても大丈夫なように、いつだってティッシュペーパーを置いてあります。

私の時代は、紙の雑誌が黄昏を迎えつつあった頃ですが、それでもまだまだ多くの雑誌が発行されていました。『ホットドッグ・プレス』などは、若人に支持されていた記憶がありますねぇ。私も定期購読はしなかったけれど、ときどき読んでは「なるほど、こうしたらモテるのか」などと、見当違いの努力をしたものです。他には『デラべっぴん』などを嗜んでいたような。おぼろげな記憶でありますが。

『ホットドッグ・プレス』か。あの雑誌には、北方謙三先生が担当する読者の相談コーナーがありましたね。ハードボイルド作家らしい文章で綴られた回答の結論が、かなりの頻度で「ソープにいけ」だったのが懐かしく思い出されます。

確かに、あくまで私の経験上の話ですので、男子中高生の煩悶に限りますが、いろいろと溜まっているものをどう発散するかが問題だったような気がします。スポーツに打ち込むべきだ、という論を私は支持しますが、北方謙三さんの意見にも一定の共感が集まるのは、わからないではない。わからないではないのであります。

中高生の頃は、体力が有り余っていましたから。若きウェルテルの悩み……はちょっと不穏当なので、いったん忘れていただくとして、とにかく圧力を抜かないと、変な方向へ突き進んでしまいがちです。

これはね、個人差がありますから一般論とはいいませんが、中年でもちゃんと抜くところは抜かないと、世間に迷惑をかけることになるのであります。大人なんだから、若い人よりも気を使って、自分で自分を落ち着かせる「工夫」が必要なのではないでしょうか。

誰かと一緒にストレスを発散する。大いに結構。自分で何とかする。素晴らしいことです。溜め込んで、おかしなところに滲み出させて世間に迷惑をかける。これがいちばんろくでもないのであります。

大人でも、青年でも。私の場合は、少年の名残があるぐらいからですが、ちゃんと抜いていましたよ。ストレスを。

男性はもちろん。あるいは女性でも。その日のもやもやは、その日のうちに「抜いておこうよ」と。若い頃ほどは溜まらなくなった中年ではありますが、定期的に「あ、これは片付けておかなきゃな」という日には、片付けてから寝るようにしていますよ、と。

春霞……季節を取り入れて秋霧のような内容ですが、伝わる人には伝わるでしょうから、本日はこの辺りで。それではまた。

道案内とシュークリーム

後悔は反省とともにある。どちらかだけを抜き出すことは、非常に困難です。ただ、割合を偏らせるぐらいのことはできるような気がします。後悔は、しっかりと反省ができれば薄くできるでしょうし、反省が足りない場合は、いつまでも後悔が心のひだにこびりついたままになりがちです。

昨日、修学旅行の小学生を孔子廟の途中まで送った私は、その手順に改善の余地はなかったか、しっかりと反省しました。彼らが久留米に帰った後、長崎への修学旅行は良い思い出として残るだろうか、と少し気になってもいます。これが後悔の部分ですが、このぐらいなら、さほど時間をかけずに消化できると思います。そして、その反省がさっそく活きたのが、10月31日土曜日、本日です。

今日も道を尋ねられました。本日は御夫婦で、70代ぐらいに見えました。目指されていたのは崇福寺ではなく、西小島です。

小島というのは、長崎市内の地名の中でも面倒くさい。近所に住んでいればそうでもないのでしょうが、中小島、東小島、西小島、上小島と、似たような名前が並びます。どの小島に行くのかをよく聞かないと、目指す場所が違ってしまうんですね。西小島といえば、丸山や寄合町の隣です。崇福寺電停の辺りからは、どの小島も近いと言えば近いのですが、東小島の次ぐらいに行きやすいのが西小島です。

「西小島に行きたいのですが」とご主人がおっしゃるのを聞いて、なんとなく目的地の候補が思い浮かびました。あの辺りで、道がよくわからない人が目指すのは、神社か寺じゃないだろうか。そして、そのどちらもほぼ同じ場所だな、と。一応「西小島のどこに行くんですか?」と聞いてみると、本行寺とのこと。ビンゴです。配達でときどき伺うお寺でした。

本行寺なら、青柳から階段を降りてまっすぐ進み、進めなくなったところで左。神社が見えたら、右にある階段を登ればいい。つまり、青柳の階段まで案内すれば、あとは大丈夫でしょう。青柳までならすぐそこですから、ご一緒することにしました。今日の判断は、昨日の反省の上にあります。

階段下までお連れして、「いま、車が曲がった角がわかりますか? あそこを曲がってください。神社が見えたら右です。わからなくなったら、神社の近くで聞いたら良いと思います」とお伝えしました。

「ご親切にありがとうございました。後は大丈夫だと思います。ありがとうございました……」

何度も何度も頭を下げられて、こちらも恐縮して頭を下げて。実に日本的な別れ方で、御夫婦を見送りました。

風はひんやりしていますが、日差しの下では少し暑く感じる昼前。青柳の階段を登ると少し汗ばみますが、実に爽やかです。今日はうまくいったんじゃないでしょうか。

流石に大人ですし、あの説明で迷うこともないでしょう。道案内の成否については、成功したと判断することにしました。親切にも適量があるでしょうし、私の行動はちょっと濃い目かもしれませんが、許容範囲の親切だったと思います。

いいことをしたなぁ、と素直に自画自賛しつつ仕事をしていた12時過ぎ、先ほどの御夫婦が別の方向からお越しになりました。「先程はありがとうございました」とご挨拶をいただいた後、紙袋を渡されました。ちょっとしたお礼です、とのことですが、これはいけません。

返礼があると、なんとなくやったことが生々しくなってしまう気がします。とはいえ、私も大人です。買ってきてしまったものを差し出された以上、引っ込めさせるのは行儀が悪い。こちらのわがままで、向こうの好意を踏んづけるわけにもいきません。

中身は万月堂のシュークリーム。ふわっとした生地に、カスタードクリームがみっちり入った、美味しいやつです。

これは嬉しい。嬉しいが……いや、面倒くさいことを考えるのは止しましょう。

私は勝手に親切をしたのだし、御夫婦はそれにシュークリームで礼をすることにした。私の好意は御夫婦の好意と交錯して、何かとても心地よいものが生まれたのだと思います。私だって、「わざわざ案内してもらわなくてもよかったのに」と言われたら立つ瀬がないわけで、せっかくのお気持ちは、美味しく頂戴するのが良いのだと納得することにしました。

良いことをした。今日は確かに、人の役に立った。それが、口の中で甘く美味しいシュークリームの形をしている。元々シュークリームは好物なのですが、特に美味しく感じる午後でした。

今日の道案内は、もう何も加えるところがない理想的な形でした。大成功です。しかし、失敗がないと後悔がない。後悔がないと反省もない。失敗から学ぶことは多いが、成功からはただ良い気分だけが出てくるものですね。

成功したくて色々やるのに、失敗がなかったらなかったで、ちょっとだけ残念さを感じる辺り、なんとも度し難い性格の私でありました。

善行と対策

普段、崇福寺の近くで働いています。

くんちが終わると、長崎は旅行にいい季節になりますが、特にイベントらしいイベントもありません。そのタイミングで、修学旅行が大挙して押し寄せてくるのでしょうか。宿が安く確保できるオフシーズンは、修学旅行のベストシーズンだといえるでしょう。

ああ、なるほど。合点がいきました。

11月の平日に、ちょっと泊まらなければならない用事が入りそうで、要するに飲み会なのですが、平日だからなんとかなるだろうとホテル料金を調べてみると、意外なほど高い。まったく平日に値が下がらない。なんでだろうかと考えていたのですが、平日宿泊の需要が修学旅行で高まっているのが一因なのでしょう。

本日10月30日も、学生服の中高生や私服姿の小学生が崇福寺を目指して歩いていきます。

私は、クルーズ船の外国人でも学生でも、聞かれるたびに崇福寺への道を教える日々なのですが、本日も小学生のグループが迷っている様子でした。それも、なんとなく深刻そうです。

大人ですから、こういうときには声をかけます。作業エプロン姿の花屋のおじさんモードなので、事案となりにくいシチュエーションが私の背中を押しました。

聞けば、やはり迷っているとのこと。しかも目的地は「孔子廟」だそうです。

崇福寺の電停から電車に乗って、中華街で「5系統石橋行き」に乗り換え、終点まで行ってから、ちょいと歩いた先です。

Googleマップで計測してみると、崇福寺電停から歩けば、迷わずに行けて1.6キロ。不動産屋式だと徒歩20分ですが、その時間でたどり着こうとすると、大人でも息が上がっているでしょう。

徒歩1分80メートルというのは、いい加減見直すべきでしょうが、不動産価値の問題もあって、なかなか進まなそうな話ですね。

で、孔子廟に行きたい小学生。

修学旅行で来ているのなら、熊本か福岡あたりからでしょうかねぇ。どう行けば良いのかと聞かれたので、迷わないルートだと……。

「まず横断歩道を渡って、線路に沿って歩いていきます。『春雨』と書いてある信号が見えたら左に曲がって、あとはまっすぐ。中華街が見えたら、そのへんでもう一度聞けばなんとかなります」

そんなことを伝えると、少し不安そうな顔をしながら、大げさに頭を下げて出発していく六人組。横断歩道を渡るまで見ていましたが、ちらりと時計に目をやれば、12時を少し回ったぐらいでした。

誰かが私の頭の中でつぶやきました。

「義を見てせざるは勇なきなり」

ああ、そうだ。私は今から昼休みに入ろう。

雇い主にそう伝え、大急ぎで小学生グループを追いかけます。すぐに追いついて、中華街まで連れて行くことにしました。

途中、彼らが久留米から来たということや、今日の目的地の残りは孔子廟とグラバー園だということなどを聞きました。少し予定より遅れているということなので、春雨交差点経由よりも多少なりとも近道になるだろうと、急ぎ足で思案橋を突っ切りました。

福砂屋本店のところまで来て、思案橋が長崎随一の歓楽街だったことに気づきました。ちょっとばかし教育上よろしくないルートだったな、と思ったところで後の祭り。

構わず船大工町を通り、なんとか中華街までたどり着きました。

「この道をずーっとまっすぐ。『オランダ坂』と書いてある坂道が見えたら、そのあたりのお店の人に聞きなさい。そこからはすぐだから」

さすがにここからは迷いようがない。いっそ孔子廟まで着いていこうかとも思いましたが、あそこからだと大急ぎで戻っても、往復で小一時間かかってしまいます。

後ろ髪を引かれる思いで彼らを見送り、店に戻りました。

今でも、彼らは無事にたどり着けただろうかと心配になりますが、ローカルニュースで事故が報じられないので、なんとかなったのでしょう。

店に戻り、パンを噛み噛み考えます。

最初のタイミングで腹をくくって、電車で一緒に行くということはできなかったか。あるいは、追いついた後、慌てずに西浜町電停まで行って、そこから電車に乗るということはできなかったか。

ICカードの残高は十分。子ども6人分の480円と、自分の150円を払えるだけ残っているのに、なぜそこに気がつかなかったのか。

相手が小学生だったというのが、なんとも言えず後悔させますねぇ……。

良いことをしたなぁ、じゃないんだよ、と。もっと上手くやれたんじゃないのかな、と次回のために対策を講じねばなりません。

久留米の子どもたちなら、十年後に学生旅行でまた来るかもしれない。二十年後に恋人と、友達と、あるいは家族で旅行に来るかもしれない。

そういう将来のお客さんに対して、万全の対応ができなかったのは不覚でした。

常在戦場

観光地「崇福寺」至近で小売業をやっているおじさんとしては、反省の多い道案内でありました。

旅への誘い

今週のお題「わたしの贅沢」

 

カレーパンを焼いて美味しくいただく。これぞ贅沢!……。これはこれで本気で言っているのですが、読み返してみると、なんというか貧乏くさい。

「吾唯足るを知る」と書けばそれっぽいですが、足りてどうしますか。渇望こそが前進の根源であり、不満こそが改善の種なのであります。限界を自分で決めるな、ぶっ倒れるまでやれ!という、渡邉美樹さんみたいなことを弟子に熱く語った孔子という人がいました。『論語』の「雍也」で、相手は冉求です。さすが、世界最強の無職、、良いことを言います。

『中庸』に「天命之謂性 率性之謂道 修道之謂教」という一節があります。修道という言葉はここから来たのだと思いますが、広島修道大学の解説によれば、「人間にはそれぞれの天性がある。天性を伸ばすのが人間の道である。その道をしっかりとしたものに整えるのが教育である」という意味だそうです。

ああ、大丈夫ですよ。このへんは読み飛ばしていただいて。

修道とは教育である、ということです。ああ、だとしたら、ちょいと足りないんじゃないでしょうか。道を修めているから手ぬるいのであります。道とは極めてこそじゃありませんか。熟語にしてしまうと物騒ですが、仁義の世界という共通点は見逃せません。

さて、話を贅沢に戻します。

小さくまとまっても贅沢はある。しかし、大きく広がった無駄には、やはり別の味わいがあるものです。

カレーパンを焼いて食うのは美味い、ということは覚えているものですが、何年の何月に食べたかまでは覚えていられません。しかし、例えば23年の東京旅行で思う存分楽しんだ、という記憶は、こうして年月日まですべて思い出せるわけです。

貴賤を問うのではない。質の違いであります。

せっかく「贅沢」をテーマに文章を書く機会を得ました。そして、カレーパン型の贅沢はすでに書きました。だったら、散財型の。一般的なイメージどおりの。財布に打撃を与える贅沢を計画すべきなんじゃないかと思ったのであります。

意味もなく金をばらまくような散財は、財布が痛むだけで記憶に残りません。贅沢というのは無駄ですが、無駄だったなぁ、と記憶に刻まれなければなりません。

無駄を無駄のままに終わらせないのは、合理主義の嗜みであります。

使いもしないものを買う。たしかに無駄でしょうが、無駄だと思い知った後の私に、触れられる黒歴史が残っているのは面白くありません。形に残らず、記憶に残る。これが理想です。

だったらもう、旅に出るのが良いでしょう。東京旅行がこれだけ贅沢の記憶として残っているのだから、前例踏襲であります。

直近だと、正月休みです。そこで、遠出をするか。あるいは、距離は控えめに高く泊まるか。今のところ、関西まで足を伸ばすか、小倉で二泊三日か。選択肢は二つまで絞られています。

勝手知ったる小倉の旅か、よくわからない関西への旅か。

鹿児島への旅も考えたのですが、飲んで過ごすだけなら家でやる。四国への旅も考えたのですが、九州から四国は意外に遠くて面倒くさい。東京圏は、観光客が気軽に行ける金額ではなくなりつつあるし、九州から東北、北海道は、もはや台湾や韓国のほうが気軽な旅先です。

小倉なら、A級小倉で思う存分芸術鑑賞。関西なら、奈良から京阪神へ、あわよくば神宮まで、見られる限りの場所を見て回る旅になるでしょう。

どちらにせよ、愉快な正月になるのではないでしょうか。

どういう旅になろうと、すでに予算措置は済んでいる、というのが私の性格のいやらしさではあるんですが、そうしておかないと持病の「面倒くさい」が出不精を併発しますから、やむを得ないのであります。

二月と並んで、いつの間にか終わる十一月が始まります。正月の計画なので、もう決めてしまうぐらいじゃないと間に合わなくなるかもしれません。

無駄遣いをする計画を、締切を気にしながら考える。

こういうのが実にアンビバレントで、心の動きが贅沢をしているな、と。

無駄を贅沢と呼ぶクセが付いて、この後の人生にどんな影響があるか。そこが我が事ながらちょいと心配になる、私でありました。

贅沢はステキだ

今週のお題「わたしの贅沢」

贅沢ってなんだろう。言葉の意味をまず知っておきたいと思いましたので、「贅」という漢字の意味から考えてみましょう。

漢字ペディアによれば、

  1. 本来はなくてもよいもの、不要なもの。

  2. 皮膚にできたできものや、余計な突起を指す。『疣贅』(ゆうぜい=医学用語で、いぼのこと)。

  3. 家に入る婿(贅婿:ぜいせい)の意味もある。

とのことです。3の用法が実に味わい深いですねぇ……。

「沢」は「サワ」と読む場合、水たまりや小さな川のことを指しますが、「タク」と読むのであれば、水があることによってもたらされる豊かさや恩恵、という意味になるそうです。あと、水面のきらめきから「つややかさ」という意味もあるのでしょうね。光沢などがそういう用法でしょう。

水がもたらす豊かさという意味では、「潤」にも同じような意味があるようで、二つ並べると「潤沢」です。資金、物資、人材、時間などが十分に満ちていて、豊かであるさま、という解説があります。

「贅沢」と並べてみると、意味するところは「無駄なものが多いさま」と言えなくもないのではないでしょうか。

さっさと本題に入ればいいのに、ぐだぐだと冗長に紙幅を割いてみましたが、冗長というのも、贅沢だと言い換えられなくもないのではないでしょうか。

本題に入る前に「贅沢に」四百文字以上費やす当ブログ。読む方の身にもなれ、というご意見。至極もっともだと思います。

さて、本題。贅沢というのも加減の問題で、例えば正月休み。私はおそらく小倉に二泊三日だと思いますが、いっそ関西まで足を延ばすのも楽しそうだ、と考えています。

ぜひとも使い切らなければならない、というわけでもないのですが、中年男性の一人旅を過不足なく楽しめるぐらいの予算は準備してあります。家で飲んでいればいいだけの正月に、わざわざ金を使って疲れに行くのだから、無駄です。つまり、贅沢なのであります。

こういう贅沢は、準備も予算もちょっとした大ごとになります。しかし、贅沢はこういう大ごとを経ないとできないものではありません。ちょっとした無駄なこと、そこにも贅沢の種はあるのであります。

私はあまりパンを食べないんですが、週に一度は必ずカレーパンを食べます。昼ごはんに、ちょっとプラスする感じですね。

山崎製パンでもフジパンでも、リョーユーパンでも、どこでも良いんですが、町のパン屋が手作りしました、というようなパンではない方が好みです。

これをそのまま食べるのなら、ただの昼ごはん。贅沢なんだから、やらんでも良いことをやらねばなりません。トースターで五分ほど焼くんです。表面がパリッとし、中のカレーも程よく熱くなるぐらいであれば、焼き加減は好みでしょう。私はちょっと強めに焼き色が付くぐらいまでいきます。

熱々で香ばしい匂いが立ち昇る、焼き立てのカレーパン。当然、手では持てません。キッチンペーパーでちょいとくるんで、噛めばバリッと小気味いい音がして、中のカレーは四方八方に香気を運びます。

調理済みの惣菜パンですから、もちろん焼かなくても食べられます。それなりに美味しいものです。でも、焼くと美味くなる。劇的に変わる。だから私は焼くんです。

このひと手間、ここに小さな贅沢が隠れているような気がします。

贅沢というよりは、ちょっとした調理な気もしますが、そのまま食べるより余計に時間もかかりますし、一カット分のキッチンペーパーも浪費されるわけです。これはやっぱり、贅沢なのではないでしょうか。

ひと手間かける、という贅沢。

酒だって、酔っ払ったら同じなんだから、ブラックニッカを飲んでおけば良いようなものですが、私が普段飲むのはブラックニッカスペシャルです。安くて、美味い。この「美味い」を探してしまうのが、贅沢への道なのかもしれませんね。

神無月もそろそろ晦、霜月がやってきます。夜がぐっと冷えてくると、おでんでキュッと熱燗というのが定番なのですが、冷やで飲めば良いものを、わざわざ徳利に酒を移して温めるひと手間。なるほど、熱燗も贅沢ですな。

大げさになにかをする、大散財する、というのも間違いなく贅沢ですが、そうでないことにも贅沢は潜んでいる。なにかひと手間をかけたときに「ああ、贅沢を楽しんでいるなぁ」と感じられるかどうか。そのあたりに、平凡な日常を楽しく過ごすヒントが隠れているのではないかと。

暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう。

早朝のラジオから流れてくる、いい言葉です。NBCラジオだと、この言葉が流れるのは土曜日の朝ですから。なんとも言えず嬉しい気持ちになります。

 

明日は火曜日ですか。なるほど、火曜日なんですね、まだ……。

 

よし。明日のお昼はカレーパンにしましょう。

まだ土曜日が遠い日に、気を紛らわすために贅沢をするつもりの私でありました。

家を飲む金木犀

台風が近づいてくる週末。偏西風と高気圧の影響で動きが読めない台風30号は、長崎直撃コースの予報がやや南にずれました。一日中雨になると思っていた土曜日でしたが、午後からは薄日がさす時間もありました。

しかし、予報の段階で「雨」だとか「荒れる」と発表されていると、客足は寂しいものです。午前中、雨が降っている間はまだましでしたが、雨がやんで薄日がさす午後は、気温も湿度も上昇して、身の置き場もないほどの不快さでした。

ぼーっとしていると眠くなってくる環境ですが、ちょうどいい具合に配達が一件。空一面の雲ですが、雨はしばらく降りそうにないので、傘も持たずにぼちぼち歩いていきました。

愛宕とか高平上とか、要するに原付すら入れない配達先が何件かあるんですが、その中の「手を伸ばせばもう、矢太樓に触ることができるんじゃないか」と錯覚するぐらいの場所を目指します。

坂と階段をふうふう言いながら登っていきます。湿度が高いので、汗はとめどなく吹き出します。昨日、23日が霜降だったはずですが、少なくとも長崎では霜の心配は必要ないな、などと考えているうちに配達先に到着。荷物を置いて、店に戻ります。

来た道をそのまま帰るのもつまらないので、いったん川沿いまで降りることにしました。距離はさほど変わりませんが、だらだら坂を下っていくより、川のせせらぎを聞きながら歩けば、気分だけでも涼しかろうと思ったのです。

もう少しで、最近完成した小島小学校が見えるというあたりで、風が秋の匂いを運んできました。金木犀でしょう。

見るよりも 先にかぐわし 金木犀

一句ひねってみましたが、「どこで咲いているのだろう?」と探すまでもなく、それはそれは立派な金木犀が、濃い黄色の花をつけています。

思わずスマホを取り出して、一枚撮ろうかと近づいてみると、廃屋と思しき建物が金木犀に飲み込まれつつありました。

そのあたりには、半ば朽ちかけた廃屋が何軒か並んでいるんですが、どの建物も植物に取り付かれています。車でスムーズに入ってこられる場所ではないし、エレナは目の前にあるけれど、川を挟んだ向こう側。ぐるっと回っていけば、それなりに遠い。はっきりと不便な場所です。

なので、所有者も放っているんでしょうが、かつて人が住んでいた建物が、自然になぶられるままボロボロに崩れている姿は、縁もゆかりもない私でも、ちょっと胸に迫るものがあります。

生活の跡が、崩れた場所からちらりと見える。嗚呼……。

金木犀の香りと、季節外れの暑さと、雨上がりの息苦しさと。いろいろなものが相まって、夕暮れ時なら怪異を見たことでしょうが、まだずいぶんと日は高い。

気まぐれに差し込む日差しは思いのほか強烈で、帽子を被ってきたらよかったな、と現実に引き戻されたので、再び歩き出しました。

台風が抜ければ秋らしくなってくるとのことですから、それに期待しましょう。

10月も来週で終わります。11月は実質的に12月なので、今年ももう残すところ1か月です。まだ来てもいませんが、行く秋を惜しみつつ、暮れの繁忙期の準備をぼちぼち始めようと思った、今日のおさんp……配達の行き帰りでありました。

原理主義者との対話~宗教戦争を避けるための知恵について~

今週のお題「アニメ」

 

「アニメじゃない、ホントの事さ」というOP。そんなことだから、原理主義者から偽典扱いされるんだよ、とZZガンダムの不遇を思うのでありますが、ガンダムです。

 

テロを起こすぐらいの原理主義者だと、カミーユ・ビダンを認めない。

テロは起こすけど、それにたいして批判者もいるぐらいの原理主義者が、ジュドー・アーシタを認めない。

テロは起こさないけど、世界中で迷惑をかけるぐらいの伝統主義者が、ウッソ・エヴィンを認めない。ガンダムとは、厄介な世界宗教みたいなものであります。

 

Wとか東方不敗とかはもうね、論外なのが、ガンダム原理主義の系譜ですし、OVAの取り扱いをどう考えるか。小説作品はどうするか。まるで、見事に宗教論争なのが、ガンダムという世界宗教なのでありましょう。

いやいや、月光蝶も正史でしょう、とうっかり口に出来ない。それが、宗教戦争…いや、ガンダム原理主義の世界であります。

継続性という点で見ると、ZZガンダムまでは聖典の中に入れるべきなんです。ヤザン・ゲーブルの変質を問題視する学派は当然いますし、アニメじゃないんなら邪道じゃないか、と主張する派閥もありましょう。秋元康が関わると全部間違いだというサタニストハンターみたいな一派もいるかも知れません。

 

しかし、ジュドー・アーシタのガンダムまでは、好むと好まざるとにかかわらず、一貫性があると。見るのがガンダム正史学の立場であろうと思うのであります。

 

Vガンダムまでは、たしか高校生ぐらいだったと思いますが、追っかけた覚えがあります。ただ、本当に辛かったんです。シュラク隊、マスドライバー…う、目頭が…

マチルダさんのパターンから、そのまま進化した富野マジック。虚淵が魔法少女を片っ端から、のはるか先にエグいレベルでかました先人はいたのであります。うーん、大迷惑。

 

「魔術師還らず」に代表される、皆殺しの田中に悶絶させられた中学時代を経て、やっぱり主要キャラクターを活かしておかない「皆殺しの富野」にしばきあげられた高校時代…よくも曲がらず、今に至っているものだと感心します。

 

登場人物が死んだら劇的だろう、という手法は効果的ですが安易ですよ。特に田中芳樹先生は、すべての作品で登場人物を生かしておかない作風なので、大作家だという評に異論はありませんが、嫌いです。ナルサスの扱いが特筆大書して嫌だなぁと思いましたね。

 

できれば、死人は少ないほうが良い。

空想力で紡がれる物語なんだから、救いがないといけません。

 

そう考えると、田中先生も富野先生も、結論まで行けば救いがある展開にはなっている。ような。気が。しないでもない。ギクシャクしていますが、擁護するんなら、未来に向かって道がある展開ですよ。

 

そう考えると、虚淵さんのまどかマギカは、あれで良かったんだろうかな、と。思わずにはいられない、ハッピーエンド至上主義者の愚痴みたいななにかでありました。

。